たちが悪い冗談だ

 今外は雨だ。車から見るだけでも雨の酷さは解る。現に伊佐と千条が車の中に閉じ込められているのはこの雨のせいである。帰りに山道を通ると、崖崩れによって道を遮られてしまった。戻ろうとしたが、生憎この道路は戻っても行きつく先は山岳の為の施設だ。仕方なく伊佐と千条は施設に戻ることにした。

 去るときに確認したが、施設には殆ど人はおらず、施設を管理する者くらいしかいなかったはずである。駐車場には伊佐たちが乗る車くらいしかないが、長時間の駐車は避けられない為、駐車場の使用許可を取らねばならない。千条が許可を取ってくると名乗りを上げて、施設に向かうことになった。

「伊佐はここで待っていて」

ドアを開けると、すぐさま雨が入ったので車の中がぐっしょりと濡れてしまった。千条は雨合羽だけ着て行ったが、車と施設の距離がいかに近くとも、全身が濡れるのは避けられないだろう。夏の気配がやや薄くなったとはいえ、ここは山であり、気温がだいぶ低くなったので暖房を付けた。カーヒーターに手を当てて、かじかんだ指を温めた。

崖が目の前で崩れたのは運がいいと言うべきか、悪いというべきか。命が助かっただけましであろうが、千条の巧みな運転技術で避けられたのを見たので、運だけでは助かることではないなとしみじみ伊佐は思った。

 この施設にもペイパーカットの紙が落ちていると聞いて来てみたが、紙はあったが他にめぼしいものはなく、誰も盗まれていないところを見ると、事件はこれから始まるのだろう。押収した予告状を見る。

「この紙を拾った者の生命と同等の価値のあるものを盗む」

 お馴染みの文章と文字を凝視する。曇りによってほの暗くなり、見えづらくなってきた。明かりを付けようとしたとき、雷が鳴った。

 バックミラー越しに車の後ろに誰かが立っている。施設近くに駐車している車に対し、その人物は丁度逆の位置にいて、背を向けている。崖から見える景色でも見ているのだろうか。

「千条?」

一瞬千条かと思ったが、違う。今、千条は施設の中で管理人と話をしているはずだ。髪の毛の色はそっくりだが別人だ。体格から見て、女性の様だ。では、今目の前にいる奴は誰だ。中央分けの肩口近くまで伸びたショートヘアをもう少し千条に似ているような気がする。ともかく、こんな天気で崖の近くにいるのは危険だ。元警官だからか、安全な場所に避難させようと伊佐は外へ出た。千条が出て行ったことで濡れた座席がようやく乾きかけたのにまた乾かせなければならなくなった。

「おい!そこの!さっき麓で崖崩れが起きたんだ!そんな所にいたら危険だ!戻れ!」

 女性は伊佐の声が聞こえないのか、こちらを振り返えようとしない。伊佐は女性の方を掴んで再度声を掛けた。女性はこちらを振り返ると、まるで幽霊にあったような驚いた顔をした。伊佐もまた驚いた。目の前の彼女もまた伊佐が幽霊に会ったような顔をしているのを見えているだろう。伊佐はこの女性を知っている。しかし、ここで会う訳がないのだ。この感覚は似ている。伊佐の頭にはひとつの単語が浮かび上がる。

ペイパーカットなのか?

 女性は伊佐の心を読んだかのように頭を振って否定した。

「いいえ。貴方が見ているのはただの私よ。貴方が追い求めるものではないわ」

誰だ。と伊佐の心を読んだかの様に女性は言う。

「そう、思い出せないのね」

悲しげな顔が見えた瞬間に雷が落ちた。一瞬目の前が雷の光で明るく照らされた。近かったせいもあってか、衝撃も伝わり、伊佐は目を瞑った。

 次に目を開けた時には女性はおらず、立っていた位置がほんの少し乾いていたようにも見えたがすぐさま雨で地面は濡れて確認は出来なかった。

 後ろから千条が走りながらこちらに来た。傘で雨を遮ってくれたが、既に伊佐は雨でずぶぬれになっている。

「どうしたんだい?伊佐」

伊佐が茫然と地面を見るので千条もそこを見る。見てもあるのは地面で何もないが、伊佐には先程まで何かあったかのように視線を動かさない。伊佐に何かあったのは理解したが、それよりも雨に濡れた伊佐をこのまま放っておく訳にはいかないので、施設へ入るよう促した。

「許可なら取れたよ。なんなら中で休んでもいいって言ってくれたよ。行こう」

「あ、ああ」

タイミングを考えて、雷が鳴る前には既に千条はこちらへ向かう途中だったはずだ。

「千条。お前、何か見たか?」

千条は首を傾げ、否定した。

 いるはずのない人物。ペイパーカットの予告状。今のといい、今回も奴にあしらわれるのだろうかと思うと腹だしくなった。

「たちが悪い冗談だ」

0コメント

  • 1000 / 1000